空には何があるか / His Perspective-taking on the Ground   若原光彦


 俺が小学校一年生の時だ。俺は色鉛筆の「みずいろ」が、ちっとも水の色ではないと気づいた。水は透明だ。水色なんて名前は、おかしい。けれど大人の世界というのはそういうものだ。俺は今の今になっても一銭のお金なんて見たことないが、それでもニュースは当時と変わらず為替を何円何銭と報じている。大人の決まりをいちいち疑問に思ってもしょうがない。そういうものだと思っておくべきだ。
 とはいえ、その色鉛筆は俺の所有物だった。俺の好きにしていいものだ。ならばと小一の俺は、色鉛筆の側面にある「みずいろ」という刻印をカッターナイフで削った。4センチほど木目の地肌が露出し、色鉛筆の側面に平らな空欄ができた。ここへ、もっと適当な名前を書き込んでやればいいと考えたわけだ。
 そして、やらなければよかったと後悔した。水色でないとすれば、これは何色なのか? 図書室や端末に向かい、ハナダ色という言葉があることは知ったが、そのハナダとは何だ。そんなもの俺は見たことも聞いたこともない。そいつが水色より水色をしているとは思えない。納得がいかない。
 空色、という候補は、すぐに思い浮かんでいた。だが空は、常に空色であるわけではない。曇っている空は白色や灰色だ。夜の空は紺色や紫色や黒色だ。水色という名前が妥当でないのは確実だが、かといって空色も安定とは思えない。どうすればいいんだ。俺は何がしたかったんだ? どうするつもりだったんだ?
 やらなければよかった。水色を傷つけるべきではなかった。俺のものとはいえ、この色鉛筆は大人が作り大人が俺に買い与えたものだ。俺の好きにできるなどと考えてはいけなかったのだ。ナイフをあてがう前に気づくべきだった。
 空がいかにも空色であれば、話は簡単なのに、と小一の俺は思った。そして、いや、とも思った。空はある意味、いかにも空色じゃないか。時と場合によっては。
 じゃあその時と場合ってのはなんだ? どういう時に、どうして、空は空色になってるんだ? 空をしばしば青系統にしている何かが、空のなかにある。そいつが出たり引っ込んだりして、あの色になっている。その、そいつの名は、なんと言うんだ?
 俺はまずオヤジに訊ねた。「明るい、晴れの空は、どうして青いの?」。
 オヤジの説明は要領を得ないものだった。光の反射がどうのこうのという、俺たちが知っている普通の科学知識だったんだろうが、地球の大気は巨大なプリズムみたいなもんで、晴れた昼間の角度と開きっぷりでは青色の光線が多くどうたらと言われても、そんなもの子供に飲み込めやしない。そもそも光の三原色すら当時の俺はわかっちゃいない。得意そうにベラベラと講釈をたれているオヤジに対し、俺はなんだか申し訳ない気分になり「だいたいわかったんだけど」と一応の肯定を述べた。そして「それで、その青を作るしくみは、なんていうの?」と本題を問うた。
 オヤジがそのときどう答えたか、俺は憶えていない。だがその後からして、オヤジじゃ解決しなかったのは確かだ。
 俺は適当にうなずきを入れ続け、最後に「ありがとう。自分でも調べてみる」と優等生っぽいことを言って話をシメた。オヤジに落ち度があったわけじゃないんだろうが、当時の俺は「やっぱりこの人じゃダメだったか」と内心いたく落胆していた。大人は大人についてよく知っているようでいて、よくわかっていないようでもあり、呪文や儀式めいたことは述べたり書いたりしてくれるようだが、いまいち直近の問題に結びつかない。
 でも、俺の知らないことを知っているのは事実だし。俺とてゆくゆくは大人になるのだし。よくある工事中とかで、遠回りが必要で、道のりは長い、というヤツなんだろう、と俺は思った。いくら俺が小一でも、どれだけオヤジを敬愛していても、オヤジが万能でないことぐらいもうわかっている。オヤジもおそらく成長の途中なんだ、俺がまだ子供であるのと同じで。これは仕方がないことだ。俺はそう解釈した。
 だから今度は祖父へと向かった。訊きかたも変えた。「空が青いとき、空のなかに何があるの?」。
 祖父はしばらく考え込んで「わからん。難しいな」と言った。そして「降参だ。苦もない、とかじゃねえんだろうな。で正解は?」と逆に俺へ問うた。謎かけだと思ったようだった。
 俺は、ものが青色に見える時そこには青色の成分とシステムがあるのだと、俺の憶測とオヤジの断片を総合してまあ間違いなかろうというあたりを述べようかとも思ったが。それは本題ではない! と思い、無い知恵を絞った。空の、何かが、それは、わからないが、そこに限ったそれの、それじゃないものとの、その、だから、それ。が、ある。ので。それ。が。ぎぐげごがあ! 当時の俺はチビなりに頭ん中へ部品を並べにかかったつもりだったが、小一の知能で形になる設問ではなかった。結果、こねくりまわさず愚直に漏るしかなかった。「空色がある、でいい?」。
 祖父は、わざとらしく酸っぱそうな顔を作り「そりゃあー、ちと微妙だねええぇー」と背すじをそらせた。「お前が作ったナゾナゾかい? それともそれ、友達に出されたやつかい」。
 「違う。水色に似た色の名前が要って」
 「色の名前が要るう?」
 「そう。空色って何色なの」
 「水色じゃなしにか」
 「そう」
 「スカイブルー?」
 「そういう呪文みたいのじゃなくて、空にある青くなるのの名前が知りたい」
 「青くなるの。ったっておめえ、空には何もねえぞ」
 俺は耳を疑い、言葉を失った。何もない、ことはない、だろ。何もなかったら、何もないわけで、空がなくなるだろ。でも空はあるだろ。色がついてるだろう! どういうことなんだ!
 「何、もなくて、青い?」
 「じゃねえのかな。あれだ、つけてないテレビは黒い。使ってない画用紙は白い。おんなじで、夜でも曇りでもない空は青い」
 「空って、何もなくて、青いの?」
 「だと思ってるが。青空の、青空んとこには、空しかない。ほかになんにもない。てこた空は、もともと青いんだろうよ」
 「もともと、ってどんな意味の言葉?」
 「昔から、とか、何も足したり引いたりしてない、とかって意味だ。そのもの、そのままってことだ」
 「じゃあ、空の色は、いつでも誰でも空色で、いいの?」
 祖父は「あ」とだけ発して止まり、「ん」と口をつぐんだ。俺をじっと見つめ、無表情になり、さらに俺を見据えて、だんだんと薄ぅい笑顔を浮かべ「お前、ほんとは何を探してんだ? はじめっから聞かせろやい」と言った。
 俺は、水が水色でないことをまず説明し、ナイフは危ないがわかっておりかつ今回はそれだけの大事さがあるのだと前置きし、俺のモノだから祖父はあまり見たことがないかもしれないが色鉛筆というものがあり、それは木と芯とペンキでできていて、鉛筆の色違いみたいなもので芯と外の色は同じ色でそれが何本もあってそれぞれ外の横に色の名前が記されていて、でも水色は水色ではないので俺は水色を正しい名前にするのはいい考えだと思ったし「みずいろ」の部分を削ってもケガひとつしてないのは見ての通りだが空色は微妙だしほかの名前も見つからないし元には戻らないし今すぐ必要だしきっと大人が正しいし空なんか遠いしと、いつのまにやら俺は、鼻水たらして祖父の前でべしょべしょに泣いていた。
 祖父が偉かったのは、ひとつには、そこで新品の色鉛筆を俺に買い与えなかったことだ。そんなイージーな解決は求めちゃいないのだと、もっと取り返しのつかない事態が俺を襲ったのだと、理解してくれたのだと思う。あるいは自己責任を学ばせるつもりだったのかもしれないが、おそらく違う。
 もうひとつの祖父の偉大さは、彼が「泣くほどつらいかどうか、オレも試してみてえな」と腰を上げ、自分のヒゴノカミと色鉛筆を持ってきて、彼の「みずいろ」を削ってみせたことだ。淡々と手術準備に入る祖父を目で追いながら、俺は自分の愚行に祖父を巻き込んだのだと悟りすくみ震えていた。何が起きるかわからなかった。恐ろしかった。自分がいったいなぜどうしてどんな報いを受けつつあるのか俺にはわからなかった。ただ何かすごくまずいものが到来しもっと酷いことになるのだと察知した。あの気持ちもけして嘘ではなかった。だが、祖父が何度か刃を働かせ「こんなもんかな」と出来上がりを俺にあらためさせたとき、俺のパニックは急速に揮発し消え去った。刻印を削られたその色鉛筆は、一部がえぐれ木肌になっているというだけの、なんら変わったところのない、なんの問題もない、ただの色鉛筆でしかなかった。その後に悪いことも起きなかったし、祖父のつらそうな顔を見たという記憶もない。
 俺はそれからしばらく、祖父と同じなのだしと自分をなだめつつ、一部欠損した残念な色鉛筆を使っていたが、ある日ひらめいて次の行動へ出た。水色だけでなく、全部の色から全部の名前をこそぎ落とし、出来た平面へ自分の名前を記したのだ。繊細な大作業を終え、我ながらいい仕上がりとニヤけて、さて長さ順だの、芯の尖りぐあい順だの、温かそうな順だの、カッコよさげな順だのと、さまざまに整列させ遊んでいたことをよく憶えている。
 この事後処置について祖父へ報告すべきか否かは迷いどころだったが、祖父にこの話をすると自分はまた原因不明の涙を晒すかもしれないと気づき、俺は知らせないことに決めた。俺が泣かないほうが祖父は喜ぶはずだからだ。しかしあれは言うべきだったと、今の俺は思う。





若原光彦
もと詩人。岐阜県在住。1979年生まれ。

写真を見て、これは大人の何かだ、と根拠なく思いました。
それから、札幌の時計台がじつはビル街にあるんだという話や、
また、一度だけ行ったことがある鳥取駅前の彫像を思い出しました。
何人もの子供たちがめいめい斜め上を向いている像でした。
……ひとは通常、前方や往来や、ちかぢか踏む地面へ、認識を割きます。
空を見ること、そのぶん地上の情報を捨てることは、まずしません。
……といったもろもろから、空の何かを見ねばならない子供の話、
を書きだしたはずなのですが、なぜかそうで違うことになりました。